買収のノックアウト・ファクターは、DD前に決めておく

M&A DD Insights Case 008

買収のノックアウト・ファクターは、DD前に決めておく

M&Aで価格交渉に持ち込むべきでないリスクとは何か。ハラスメント、意図的な不開示、コンプライアンス違反など、買収前に定めるノックアウト・ファクターの書き方、決定時期、運用方法を解説します。

M&Aの検討では、対象会社の魅力と欠点を並べ、総合して価格に落とし込みます。この積み上げは、正しい作業です。ただ、この仕組みだけでは処理できない論点があります。処理できないまま議論だけが続き、時間と費用が積み上がっていく。その構造と、事前に決めておくべき条件を整理します。

値段がついてしまうから、議論が終わらない

ある会社の買収を検討していたときのことです。デューデリジェンスで論点がいくつも出ます。未払残業、退職給付の簿外債務。金額に直せる論点は価格交渉の議題になり、割に合うかで決着する。正しい処理です。

問題は、もう一つの論点でした。創業家出身の役員による、常態化したハラスメント。絶えない退職者。会社は把握しながら二年放置し、DDの初期質問には「該当なし」と回答していました。

議論はこう進みます。「まず程度を確かめよう」「本人が退けば解決するのではないか」「和解水準を見積もって価格から引けないか」。結論が出ないまま、二か月が過ぎました。

空転の理由は、この論点にも値段がついてしまうことにあります。和解金を見積もり、離職率の悪化を織り込み、価格から引く。技術的には、できてしまう。できてしまうから、終わらない。

見積もった数字は、構造的に過小になりやすい

しかも、その値段は構造的に過小になりやすいものです。金額に置きやすいのは、和解金や採用・離職にかかるコストまで。取引先の離反、レピュテーションリスク、そして買い手側の従業員がその文化に触れること。どれも実在するのに、この時点では数字に表れません。

見積もった瞬間、見積もれない部分をゼロと置いたことになります。これは見積もりの精度の問題ではなく、対象そのものの性質です。時間をかけても、専門家を入れても、数字に表れない損害は残ります。

表明保証と補償条項で処理する、という発想もあります。ただ、補償で戻ってくるのは金銭です。毀損した評判も、離れていった取引先も、買い手側で起きた退職も、金銭では買い戻せません。

ノックアウト・ファクターとは何か

ノックアウト・ファクターとは、価格に関係なく、絶対に買わないと先に決めておくものです。

評価の積み上げは、値段のつくものを扱う仕組みです。そこに論点を入れた瞬間、議論は金額の話に変わります。だから、金額の話にしてはいけない論点は、最初から入れない。仕組みの外側に置いておく。これがノックアウト・ファクターの機能です。

ボクシングでいえば、判定ではなくKOにあたります。ポイントでどれだけ勝っていても、一発で終わる。積み上げた評価とは、別の論理で動きます。

何を書くか

書くのは、値段はつくのに、その値段が実害を表さないものです。たとえば、ハラスメントの申告を認識しながら調査も是正もしなかったこと、労災や事故の隠蔽、売り手による意図的な不開示。どれも金額に直せてしまいます。直せてしまうから、直す前に外へ出しておく必要がある。

書き方には、コツがあります。

一つは、主観的な程度要件を入れないことです。「重度の」「著しい」と書けば、その程度を議論することになります。代わりに、経営が事実を認識した時期、調査や是正を行ったか、DDで正確に開示したかといった、客観的に判定できる行動で条件を書きます。

たとえば「重大なハラスメントを放置した会社」ではなく、「経営陣がハラスメントの申告を認識した後も、調査・是正措置を行わず、DDでも正確に開示しなかった会社」と書く。事象の程度は解釈が割れますが、経営が何をして何をしなかったかは、事実として確認できます。

何を書かないか

反社会的勢力との関係など、法令・コンプライアンス上当然に排除される事項は、共通の禁止事項として別に定めます。ノックアウト・ファクターとして特に決めておくべきなのは、案件の魅力や価格次第で迷いが生じる論点です。

「どう試算しても価格が合わない」も、ここには入りません。価格は評価の出口で出てくる結論であって、入口に置く条件ではない。高すぎるから降りるのは、撤退ではなく交渉の結果です。

いつ決めるか

決めるのは、候補に会う前です。経営者と意気投合する前、社内に案件として報告する前。

デューデリジェンスに数百万円と三か月を投じ、投資委員会にも報告済み。その段階で不都合な事実が出てきたとき、人は「撤退しよう」ではなく「価格に織り込もう」と考えます。これは判断力の欠如ではありません。投じたものを守ろうとする、ごく自然な反応です。

だから、まだ何も惜しくない段階の自分に、条件を書かせておく。判定する人も、案件に何も投じていない人であるべきです。現場は、降りられない構造の中にいます。

実際に、これを候補に会う前に紙にしていた会社があります。同じ類の事実が出たとき、その会社は翌日に降りました。程度も和解水準も、議論していません。

運用は、絞ることと、例外を作らないこと

条件は、三つから五つで十分です。多すぎれば形骸化し、誰も読まない紙になります。そして一度書いたら、例外を作らない。一度でも例外を認めれば、その紙は次の案件から機能しません。

ポイントで勝っていても、KOは一発で終わります。その一発を何にするかは、評価を始める前にしか決められません。

ノックアウト・ファクターの記載例

・経営陣が把握したコンプライアンス違反について、調査・是正措置を開始していない、または対応経緯を記録していない

・DDにおいて、売り手または経営陣による意図的な虚偽回答、もしくは重要事実の不開示が確認された

・問題の原因となった経営者または役員を、クロージング後に経営から排除できない

・是正または事業継続のために、買い手の信用、従業員または人事制度への負担を引き受ける必要がある

佐藤宏樹|バルクアップコンサルティング株式会社 代表取締役社長

MBA(京都大学)/Entrepreneur in Residence, University of Nottingham(客員起業家)/元三菱UFJ銀行/元PwC Japan DEALS

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